元号が<平成>から<令和>となる。命名の出典となるのは万葉集の中の梅花の歌三十二首の前につけられた序【原文】で、書き手不詳ながら山上憶良(やまのうへのおくら)作とのこと。時代はのちに奈良の大仏を勧進した聖武天皇の御代、天平二年(西暦730年)正月十三日に大宰府(筑紫)の大伴旅人(おほとものたびと)の邸宅で梅の花を愛でる宴が催されたと記している。
漢詩風の格調高い一文を解釈【要約】するに 集う一座の和やかな華やぎと 何やら歌人達の意気込みが伝わってくる。当時大宰府は外国との交流の窓口であり新しい情報の風が吹き込む所であった。伝来の情報知識を糧に 歌人達には自らの感性による和歌表現をもって時代を先取りする矜持があったのでは・・・。いまや 地球的な情報同時化の次には 次世代高速通信と人工知能により「モノのインターネット化」時代が間近 、人々の生活様式も変容の時代を迎える。<令和>はどのように変革の時代を我が物としてつないで行くのであろうか。(K.K.)
【原文】
花(うめのはな)の歌三十二首并せて序
天平二年正月十三日に、師(そち)の老(おきな)の宅(いへ)に萃(あつ)まりて、宴会を申(ひら)く。時に、初春(しよしゆん)の 令 月(れいげつ)にして、気淑(よ)く風 和(やはら)ぎ、梅は鏡前(きやうぜん)の粉(こ)を披(ひら)き、蘭(らん)は珮後(はいご)の香(かう)を薫(かをら)す。加之(しかのみにあらず)、曙(あけぼの)の嶺に雲移り、松は羅(うすもの)を掛けて蓋(きにがさ)を傾け、夕の岫(くき)に霧結び、鳥はうすものに封(こ)めらえて林に迷(まと)ふ。庭には新蝶(しんてふ)舞ひ、空には故雁(こがん)帰る。ここに天を蓋(きにがさ)とし、地を座(しきゐ)とし、膝を促(ちかづ)け觴(かづき)を飛ばす。言(こと)を一室の裏(うら)に忘れ、衿(えり)を煙霞の外に開く。淡然(たんぜん)と自(みづか)ら放(ひしきまま)にし、快然と自(みづか)ら足る。若し翰苑(かんゑん)にあらずは、何を以(も)ちてか情(こころ)を述(の)べむ。詩に落梅の篇を紀(しる)す。古(いにしへ)と今(いま)とそれ何そ異(こと)ならむ。宜(よろ)しく園の梅を賦(ふ)して聊(いささ)かに短詠を成すべし。
【要約】
梅の花三十二首の序文
天平二年正月十三日に、大宰師の大伴旅人の邸宅に集まって、宴会を開く。 時に、初春の好き(令)月にして、空気はよく風やわらぎ(和)爽やかに、梅は鏡の前の美女が化粧する白粉のように開き、蘭は身を飾った香のように薫っている。 のみにあらず、明け方の嶺には雲が移りゆき、松は薄絹のような雲を掛けて傘を傾けたごとく、山のくぼみには霧がわだかまり、鳥は薄霧に封じ込められて林に迷っている。 庭には生れたての蝶が舞ひ、空には年を越した雁が帰ろうと飛んでゆく。 ここに天をきぬがさとし、地を座として、膝を近づけ酒を交わす。 人々は一堂に会した部屋で言葉を忘れ、胸襟を煙霞に開いて打ち解けている。 淡然と自らの心のままに振る舞い、快くそれぞれらが満ち足りている。 詩歌でないのであれば、どのようにして心情を表現しよう。 漢詩にも多くの落梅の詩がある。いにしへと現在と何の違いがあろう。 さあ園の梅を詠んでいささかの短歌を作ろうではないか。
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